最初のブログとして、元人吉市立東間小学校長の梶原志郎先生が長きにわたってまとめられ、平成26年9月に発表された「人吉球磨の学校」をご紹介します。
人吉球磨の学校の歩みがわかる貴重な資料ですので、退職校長会として今後も大切していきたいという思いでブログとして公開させていただきました。
人吉球磨の学校4-1
我が国の学校教育制度変遷のあらまし
「人吉球磨の学校」の変遷を語るには、我が国の学校制度の変遷の概要を知ることが大切である。ややもすると明治初期の学校も現在の制度と同じだったと思い込んで、設立されてからの年数から算出して「第○○回卒業式」と呼んでしまうことがある。草創期の学校制度は、現在の学校制度とまったく異なっていたことを認識しておくことが肝要である。
明治5年(1872)学制序文「学制 小学教則」
明治6年から実施 就学を奨励した。
①全国を8大学区(翌年7大学区に変更)、1大学区に32中学区、1中学区に210小学区を設定して、小学校を設立しようとした。5万を越すような小学校設立など当時としては不可能なことであった。(球磨管内は第6大学区第17番中学区(翌年第5大学区に変更)となり90小学区が設定されたという。(「球磨郡誌」P411))
②「尋常小学」を「下等小学4年」「上等小学4年」とわけ、4年間を8級にわけ6ヶ月をめどに学習する進級制となっている。
第四十八章 生徒ハ諸学科ニ於テ必ス其等級ヲ蹈マシムルコトヲ要ス故ニ一級毎ニ必ス試験アリ 一級卒業スル者ハ試験状ヲ渡シ試験状ヲ得ルモノニ非サレハ進級スルヲ得ス
「試験」による進級の期間は個人の能力によって異なり、原級留置があり、進級を「卒業」と呼んでいた。したがって、入学時期も就学期間も個によってちがっていたようである。(「東間百年史」に、明治7年~9年の「進級」の証書(「試験状」というのだろう)の写真版が掲載されている。
それによると進級に「卒業」という言葉が使われ、期間も3~10ヶ月と6ヶ月にこだわっていない。日付もまちまちである。現在の「卒業」の意味と全くちがっている。(下記の人吉球磨の学校4-2に一部再掲)
③休日は1・6の日とした。日曜日が休日になったのは明治9年から。
④教員の職名は小学校「訓導」、中学校「教諭」、大学を「教授」とした。
就学率 28.1%
明治14年(1881) 教学聖旨 「教育令 小学校教則綱領」
明治15年から実施 3年間を「就学義務」
①大中小学区制をやめて、町村ごとに、または数町村連合して小学校を設置するように改めた。
第九条 各町村ハ府知事県令ノ指示ニ従ヒ独立或ハ連合シテ其学齢児童ヲ教育スルニ足ルヘキ一箇若クハ数箇ノ小学校ヲ設置スヘシ但本校小学校ニ代ルヘキ私立小学校アリテ府知事県令ノ認可ヲ経タルトキハ別ニ設置セサルモ妨ケナシ
―略―
第十三条 凡児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トス
②「小学校」を「初等科3年」「中等科3年」「高等科2年」とわけ、初等科3年を就学義務とした。
③「前期・後期」制が採用され、学年は9月に始まった。6ヶ月進級制を1カ年進級制に改正した。
④それまでまちまちであった教育課程が全国的に統一されていった。
⑤次のような条文も見られる。
第四十六条 凡学校ニ於テハ生徒ニ体罰殴チ或ハ縛スルノ類加フヘカラス
第四十七条 生徒試験ノトキハ父母或ハ後見人其学校ニ来観スルコトヲ得ヘシ
⑥はじめて「校長」職がおかれた。(それまで「主席訓導」と呼んでいた。)
就学率48.5%
明治19年(1896) 「小学校令 小学校ノ学科及其程度」
明治20年から実施 4年間を就学義務
①「尋常小学校4年」「高等小学校4年」とし、尋常小学校4年間を「義務」としたが、学校運営を授業料や寄付金を財源としたため、実際は空文となった。
② 小学校の時程を規定した。
就学率 45.0%
第七条 小学校ハ一箇年内凡八週間及日曜日大祭日祝日ハ休業スヘシ但土曜日ハ午後休業スルコトヲ得
第八条 小学校ノ授業時間ハ毎日凡五時トス
明治23年(1890)教育勅語 「第二次小学校令 小学校教則大綱」
25年から実施 4年間を就学義務
①「教育勅語」が発せられ、教授内容や学校行事(儀式)に大きな影響を与えた。「奉安殿」が設置された。
第一條 紀元節、天長節、元始祭、神嘗祭及新嘗祭ノ日ニ於テハ學校長、敎員及生徒一同式場ニ參集シテ左ノ儀式ヲ行フヘシ
一 學校長敎員及生徒 天皇陛下及皇后陛下ノ御影ニ對シ奉リ最敬禮ヲ行ヒ且兩陛下ノ萬歳ヲ奉祝ス 但未タ御影ヲ拜戴セサル學校ニ於テハ本文前段ノ式ヲ省ク
二 學校長若クハ敎員、敎育ニ關スル勅語ヲ奉讀ス
三 學校長若クハ敎員、恭シク敎育ニ關スル勅語ニ基ヅキ聖意ノ在ル所ヲ誨告シ又ハ歴代天皇ノ盛德鴻業ヲ敍シ若クハ祝日大祭日ノ由來ヲ敍スル等其祝日大祭日ニ相應スル演説ヲ爲シ忠君愛國ノ志氣ヲ涵養センコトヲ務ム
・「敎育ニ關スル勅語」→「教育勅語」
・紀元節 2月11日
・天長節 11月3
・元始祭 1月3日
・神嘗祭 10月17日
・新嘗祭 11月23日
②「尋常小学校3~4年」「高等小学校2~4年」とし、就学年数に巾があった。尋常小学校を就学義務とした。
③進級は「試験」でなく「児童平素ノ成績ヲ考査」して決定することが定められた。
④慣例的に、学校は4月にはじまり3月に終わること、3学期制が定着していった。(始まりは、明治19年高等師範学校が採用してから。他のことも県単位で実施されていたようである。)
⑤儀式を重んじたことから、「入学式」「卒業式」もこの頃始まったといわれる。
(条文・規定はない)
就学率 55.1%
明治33年(1900) 「第三次小学校令 小学校令施行規則」
34年から実施 4年を「義務教育」
①「尋常小学校4年」を義務教育とした。「高等小学校2~4年」に進むことを奨励した。
②就学義務の規定と共に「無償制」を確立した。財政的に裏付けられた「義務教育制度」が確立した。
③慣例的に行われていたことが、明文化された。
就学率 88.0%
第二十五条 小学校ノ学年ハ四月一日ニ始リ翌年三月三十一日ニ終ル小学校ノ学期ハ府県知事之ヲ定ムヘシ
第二十六条 毎日ノ教授終始ノ時刻ハ府県知事之ヲ定ムヘシ
第二十七条 小学校ノ休業日ハ左ノ如シ
一 祝日、大祭日 二 日曜日 三 夏季休業日 四 冬季休業日 五 学年末休業日 六 其ノ他府県知事ノ定ムル休業日
町村の小学校も府県単位で動いていたことがわかる。
明治40年(1907) 「改正小学校令 小学校令施行規則」
41年から実施 6年間を義務教育
第十八条 尋常小学校ノ修業年限ハ六箇年トス高等小学校ノ修業年限ハ二箇年トス但シ延長シテ三箇年ト為スコトヲ得
第十九条 尋常小学校ノ教科目ハ修身、国語、算術、日本歴史、地理、理科、図画、唱歌、体操トシ女児ノ為ニハ裁縫ヲ加フ土地ノ情況ニ依リ手工ヲ加フルコトヲ得
① 義務教育を「6年」に延長した。「尋常小学校6年」を義務とし「高等小学校2~3年」へ進むことを奨励した。大正時代に入ると、「高等小学校」への進学志望者が増え、ほとんどの学校が併設され「○○尋常高等小学校」と称した。
② 「国定教科書」制度が確立した。
就学率 97.8%
昭和16年(1941) 「国民学校令 国民学校令施工規則」
8年間を義務教育(未実施に終わる)
①「国民学校」を「初等科6年」「高等科2年」とした。太平洋戦争勃発とかさなり短期間に終わった。
第一章 目的
第一条 国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ日的トス
第二章 課程及編制
第二条 国民学校ニ初等科及高等科ヲ置ク但シ土地ノ情況ニ依リ初等科又ハ高等科ノミヲ置クコトヲ得
第三条 初等科ノ修業年限ハ六年トシ高等科ノ修業年限ハ二年トス
②「初等科」、「高等科」合わせて8年間を義務教育とした。が、戦時下のため就学猶予措置がとられ未実施に終わった。分散教育、疎開、勤労奉仕、教練など戦時下だけの教育も推し進められた。
就学率 99.7%
昭和22年(1947)教育基本法 「学校教育法 学校教育法施行規則 学習指導要領」
9年間を義務教育
①新憲法が発布され、第26条に教育に関する事項が定められた。(旧憲法にはなかった)
(1)すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する。
(2)すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ 義務教育は、これを無償とする。
②「6・3制」と呼ばれる現行の学校教育制度である。「小学校6年」の上に「新制」として「中学校3年」をおいた。中学校は、各町村に小学校とは別に新設された。
③「小学校」、「中学校」合わせて計9年間を義務教育としている。
④各学年、教科等の内容は「学習指導要領」で示し、ほぼ10年おきに改訂されている。
⑤教科書が国定から採択制に戻った。小学校教員の職名が「訓導」から「教諭」になった。
⑥「かなづかい」が読みと一致する「新かなづかい」になった。「カタカナ」中心が「ひらがな」中心にかわり、学習順も「ひらがな」が先になった。
就学率 99.9%
※ 法令など全ての公用文がカタカナ表記からひらがな表記、新かなづかいに変わった。
東間小学校が、昭和49年10月、創立100周年を記念して発行した「東間校百年史」には、開校まもなくの貴重な資料が掲載されている。次の証書もその例である。草創期の学校教育制度が読み取れる。
「東間校百年史」p8より一部読み取り
明治45年3月 一勝地尋常高等小学校 尋常小学校卒業記念
(通常「尋常科」と呼んだ。現在の小学校卒業と年齢は同じ全員が袷に袴、男子は学童帽)
「一勝地第一小学校創立百周年誌」より
人吉球磨の学校 4-2
学校教育の草創期から大戦まで
「球磨郡誌」(球磨郡教育支會 昭和16年8月刊)に見る人吉球磨管内小学校の記録
「球磨郡誌 第2編人文界 第6章教育 第4節小學校及幼稚園 第1項 過去の小學校」(p411)によると「……かくて郡内にも 明治6年に1校、同7年に9校、同8年に26校、同9年に1校、合計37校の小學校が設立せられた。
これらの小學校は次表の如くである。」として「明治11年熊本縣管内小學校表(球磨郡の部)」の表が掲載されている。(39校 下記にコピー転載)「備考」には「前記明治十二年調査と、本表は後者が學校数二校だけ多い。
之は察するに併合又は廃校したものであろう。」としている。この「前記」が明治12年のものであるという記載がなく、「本表は後者が…」の意味がわからない。
これらの記述は、「熊本縣教育史」(熊本縣教育會 昭和6年11月刊)の
①〈明治12年小学校台帳(県庁文書)〉、「熊本縣小學校創設状況年度別調査表」(上巻p270)
②明治11年〈学事年報〉「熊本縣管内小學校表」(上巻p443)(「学事年報」とは県から文部省への報告文書という)。
この①②を根拠にしていることはあきらかである。
①には、年度別の開校数をあげ、あわせて37校が記載されている(数のみ、校名はない)。「球磨郡誌」の「前記明治十二年調査」に相当する。(②の39校より「2校少なく」なっている。)
②の表には39校が記載され(位置・校名あり)、「球磨郡誌」(下記転載p411)の表と一致している。
「球磨郡誌」の後者②の表(上のコピー)では、「第十七番中學區第十四大區で」とあるが、「第十四大區」は学校とは別の「行政区」の区分のことであり混同がみられる。(後述「市町村略史」参照)。あきらかに「添田」→「漆田」、「添田村」→「漆田村」、「頭村」→「頭地」、「山林」→「小林」、「口里」→「上里」「三浦ケ村」→「三ケ浦村」などの誤植がみられる。
「漆田村」は、他に記載がなく「七地村」のことのようである。「 仝」は、上下の項目で比べることで、右横と同じということではない。要注意!
上記「球磨郡誌」(p411)の「明治11年熊本縣管内小學校表(球磨郡の部)」の表を整理すると次のようになる。
以上のように、39校が掲載されている。記録にある「生徒数」(児童数)の合計は、4,777名となる。かなり多くの子どもたちが学んでいたことが伺える。
「東間校百年史」によると、東間小学校の前身である「新街校」は、残されていた「證」(進級証、「卒業」という語句が記されている)から次のことが読み取れる。
それによると、明治8年頃までは「新町學校」と呼ばれ、明治10年(1877)の「西南の役」で焼失している。明治12年(1879)には「廣路小學校」、明治25年(1892)「東間小學校」と名称を変えている(東間小学校は、明治42年(1909)に現在地に移転した)。
「新街學校」の時代は1~2年と短い期間であった。明治11年12月の「證」には「新街小學校」と、はじめて「小學校」と記録されている。この頃から「○○學校」から「○○小學校」に呼称が変わったと思われる。
上記「熊本縣教育史」には、明治19年10月、尋常小学校数として「球磨郡」では、18学区、本校23校、支校18校という記述もみられる。(合わせると41校、「支校」は後に本校に昇格したと思われる。)
球磨郡誌」には「第2編人文界 第6章教育 第4節小學校及幼稚園 第2項 現今の小学校」(p414)として、次表のように昭和15年(1940)当時の管内の小学校41校を紹介している。
当時の学校制度は、明治40年(1907)「改正小学校令 小学校令施行規則」にのっとり、「尋常小学校6年」が義務教育であった。
その上に、自由に志望できる「高等小学校2年」があった。大正時代にはいり、管内の尋常小学校では高等小学校進学希望が多くなり、尋常小学校に「高等小学校」を併設して「○○尋常高等小学校」と称するようになった。
昭和に入った管内では、ほとんどが「尋常高等小学校」となっていた。球磨郡誌の紹介を整理すると次の表のようになる。
昭和15年(1940)頃、球磨管内の児童数は、20,000名を越していたことが伺える。職員数は560名ほど。学級数は490になる。
翌年、昭和16年(1941)には「国民学校令 国民学校令施行規則」が施行され「初等科6年」と「高等科2年」となり、合わせて8年間が義務教育とされた。
ここに記述されている「設立年」と前記学校一覧表の設立年と異なるものがある。こちらの設立年の多くが定説として現在に伝えられているようであるが、伝えられる設立年が、どれとも異なる学校もある。各学校に残る記録(沿革史)も加えて、それらを比較すると次のようになる。
今となっては、現在の各学校「沿革史」に伝えられている「設立年」を信じる以外にない。
「熊本縣管内學校位置之圖」にみる人吉球磨管内小学校の記録
熊本県立図書館は、「熊本縣管内學校位置之圖」(明治12年)という2m四方ほどの大きな熊本県地図を蔵している。(平成17年2月一般公開された)。この地図では、「名称(校名)」と「位置(村名)」が併記されている。「明治11年熊本縣管内小學校表」と一致しているが、「岩野」、「江代」が村名だけで「校名」がない。
(平成23年8月22日 熊本県立図書館情報支援課「資料掲載等許可申請」)
(1)明治12年熊本縣管内學校位置之圖の求麻郡部分(人吉球磨管内)
↓ 部分拡大、かろうじて学校名が読める
→ 拡大率は一律ではない。地図上の位置は正確ではない
(2)明治12年熊本縣管内學校位置之圖 人吉市街圖(人吉町 左下隅に別図として小さく描いてある)
・明治12年「人吉市街圖」の赤印は、神社寺院を示しているようである。 永国寺 老神神社 観音院(相良三十三観音十番札所瀬原観音) 若宮神社 水天宮 人吉神社? ※「人吉神社」は明治13年の創建、現在の「相良護国神社(相良神社)」 |
「水の手橋」 昭和9年(1934)
「人吉橋」 昭和32年(1957)
人吉球磨管内小学校の記録の比較
熊本縣教育史、熊本縣管内學校位置之圖、球磨郡誌の記録、各学校の「学校経営案」などに記載された沿革史をまとめて比較すると次の表のようになる。学校順は「熊本縣教育史」の順に並べ替えている。
※設立年(創立年)はどれがほんとうかわからない。 今になっては、各学校の「沿革史」の記載を「真」とする以外にない。
明治以降の人吉球磨市町村略史
管内小学校の変遷を探るには、管内の市町村の変遷を語らなければならない。略史は以下のとおりである。
*「球磨郡誌」(p411)と「熊本縣教育史」(上巻p443)にある「漆田村」はない。「七地村」のことと思われる。
※参考 「球磨郡誌」 第三編 郡の沿革史 第三章 明治時代(p1167) ~
「人吉市史」 第二巻上 第一編 明治維新の変革諸事項 第三章 明治初期の行政管轄機構の沿革
※ 備 考
平成17年(2005)2月14日、県立図書館を訪ね、「明治12年熊本縣管内學校位置之圖」を見せてもらった。地図上の学校名などの文字が小さくルーペを借りて確かめた。
デジカメで複写したが、まだデジカメの性能もそれほどでもなかったので細かいところは無理があった。そのときメモしたものは残ってないが、デジカメ写真は手元にある。パソコン画面では、地図上の学校名も十分読みとることができる。
こうした県立図書館蔵の資料を一般に公開する際は「資料掲載許可申請書」を提出し、「資料掲載許可証」を受けたうえ、公開した冊子等を2部提出することという規定がある。
ここに「熊本縣教育史」の復刻版があり、閲覧させてもらった。人吉市図書館も訪ね「熊本縣教育史」を閲覧した。ここでは実物が館内にかぎって閲覧させてもらえる。
人吉球磨の学校 4-3
大戦後、「6・3制」施行から現在まで 1
これまでの経緯
① 我が国の初等教育が完全に定着したのは、明治33年(1900) 「第三次小学校令」からといえる。「尋常小学校4年」を義務教育とし、無償制を確立して就学の裾野を大きく広げた。
② 次いで、明治40年(1907) 「改正小学校令」によって、「尋常小学校6年」を義務教育とし、上級の「高等小学校」への進学を奨励した。大正時代にはいると、学習熱が盛んになり「高等小学校」への志望が多くなったので、双方を併設して「尋常高等小学校」と称するようになった。管内では、大正年間までにほとんど併設され、8割の子弟が進学したと伝えられている。この制度が30年以上続くことになった。
③ 昭和16年(1941) 「国民学校令」が施行され、「初等科6年」と「高等科2年」を設定し、合わせて8年間を「義務教育」としたが、太平洋戦争がはじまり戦時下の教育で、就学猶予措置がとられて実施されなかった。昭和20年(1945)の終戦によって事実上終了した。
④ 昭和22年(1947) 「学校教育法」は、それまでの教育の反省から、大きく制度、教授内容を変えた。大戦後の学校教育の大きな変革であり、「6・3制」と呼ばれる学校制度である。各学年、教科等の学習内容は「学習指導要領」で示すことになった。
「小学校6年」「中学校3年」合わせて9年間を義務教育期間とした。中学校は「新制」となり新しく校舎を建設することになった。発足当時は、中学校校舎はなく小学校に同居したり、旧青年学校あとを利用していた。
例をあげると、「木上中学校」も同様であったが、昭和22年11月、同じ村内の西北端にあった「人吉海軍航空隊」跡の兵舎を改造した校舎に移転した。造成した運動場のトラックは松林の中を抜けていた。
ここは、村の中心部からかなり離れていたため、遠距離通学の生徒が多数いた。昭和24年4月、別の兵舎を解体して運び、小学校近くの青年学校あとに建て直した校舎に移転した。
管内の中学校の多くは、同じように兵舎を解体した資材を利用して中学校校舎を建設した。(「木上中学校」は、木上村、一武村、西村の合併により、昭和37年「錦中学校」に統合された)。管内の中学校建設は、昭和25年までにほぼ終了した。同時に、旧制の「中等学校」は新制「高等学校」としてスタートした。
小学校一覧
小学校一覧その① ※設立年(開校)は各学校の沿革史に残されているもの
小学校一覧その② ※設立年(開校)は各学校の沿革史に残されているもの
中学校一覧
※ 昭和22年4月中学校(新制)発足
昭和21年度木上村立木上国民学校第2学年男子
(学級は男女別。無い無いづくし、服はおさがりの着たきり、寒い日も裸足だった。手足の甲にはあかぎれが走っていた。)
県立学校
昭和22年(1947)4月「6・3制」スタートと同時に、それまでの「県立中等学校」は、新制の「県立高等学校」となった。管内には旧制の中等学校は4校あった。(大正12年(1923)「郡制廃止」により「郡立」「組合立」なども「県立」となった。)
・県立球磨農業学校(明36.4(1903)) → 県立球磨農業高等学校
→ 県立南陵高等学校(平成10年(1998))
・県立多良木実科高等女学校(大11.4(1922)) → 県立球磨農業高等学校第二部
→ 県立球磨農業高等学校普通課程 → 県立多良木高等学校(昭和25年(1950))
・県立人吉中学校(大13.4(1924)) → 県立人吉高等学校
・県立人吉高等女学校(大5.4(1916)) → 県立人吉高等学校に統合
↓昭和30年代まで 茅葺きの校舎があった
人吉球磨の学校 4の4
「6・3制」施行から現在まで 2
人吉球磨郡市児童生徒数の推移1 (昭和22年度~昭和31年度)
田野小学校
昭和22年4月分校として開校
平成24年3月休校 平成26年3月閉校
(昭和30年頃 吉澤典雄先生撮影 田野小蔵)
上村小学校八ケ峯分校(昭和21年12月開校、昭和44年3月閉校)
上村中学校八ヶ峯分校(昭和28年9月開校、昭和44年3月閉校)
人吉球磨郡市児童生徒数の推移2(昭和32年度~昭和41年度)
西村中、一武中、木上中の3校が統合
(~39年度までは3分室)
人吉球磨郡市児童生徒数の推移3 (昭和42年度~昭和51年度)
大畑小学校 段塔分校(だんとうぶんこう)
大正2年4月開校 昭和51年3月閉校
「郷土の歴史を語る学校写真集」より
山江村尾崎小学校
明治7年4月開校 昭和50年3月閉校
「郷土の歴史を語る学校写真集」より
人吉第二中学校 矢岳分校
昭和25年4月開校 昭和43年3月閉校
五木北小 中道分校
昭和23年5月開校 昭和50年3月閉校
五木第二中学校 中道分校
昭和38年4月開校 昭和50年3月閉校
山江中学校、山田小学校の遠望
昭和40年代はじめ
人吉球磨郡市児童生徒数の推移4(昭和52年度~昭和61年度)
岩野小学校川内分校
明治12年開校 昭和55年3月閉校
「郷土の歴史を語る学校写真集」より
古屋敷小学校柳原分校
大正9年11月開校 昭和60年3月閉校
「郷土の歴史を語る学校写真集」より
山江村 山田小学校尾寄﨑分校
明治30年4月開校 昭和53年3月閉校
球磨中 昭和52年4月開校
渡中、一勝地中、神瀬中、高沢中を統合して開校
平15.11.6
人吉市中原小学校
昭和58年7月 新校舎竣工
人吉球磨郡市児童生徒数の推移5(昭和62年度~平成8年度)
相良村野原小学校
明治29年4月開校 平成6年3月閉校
「ふるさとの灯」より
相良南小学校川辺分校
昭和23年4月分校再開 平成元年3月閉校
(「郷土の歴史を語る学校写真集」より)
相良南小学校柳瀬分校
昭和23年4月分校再開 平成元年3月閉校
(分校誌より)
山江村城内小学校
明治7年4月開校 昭和63年3月閉校
山江村屋形小学校
明治8年4月開校 昭和63年3月閉校
山江村大川内小学校
明治25年4月分校として開校 昭和63年3月閉校
昭和63年4月
城内小、屋形小、大川内小の3校を統合して「万江小学校」開校
「郷土の歴史を語る学校写真集」より
平成25年2月23日撮影
五木第二中学校
昭和22年4月 五木中北分校として開校
平成7年3月閉校 五木一中と統合
五木中学校
平成7年4月 五木一中、五木二中が統合
平成19年4月17日
「郷土の歴史を語る学校写真集」より
人吉球磨郡市児童生徒数の推移6(平成9年度~平成18年度)
多良木町槻木小学校
(明治12年3月開校~平成19年3月休校 平成26年4月再開校)
(平成16年7月24日)
多良木町下槻木小学校
(昭和2年4月開校~平成9年3月休校 平成18年3月閉校)
(平成16年7月24日)
山江中学校
平成16年8月12日
山江中学校
平成18年2月4日
人吉球磨郡市児童生徒数の推移7(平成19年度~平成28年度)
平成22年4月 一勝地第一小 一勝地第二小 神瀬小 3校統合して「一勝地小学校」開校
(平成15年11月)
免田中 上中 岡原中 須恵中 深田中の5校が統合
平成25年2月16日
人吉球磨郡市児童生徒数の推移8(平成29年度~令和4年度)
1 小学校
平成29年度 | 平成30年度 | 平成31年度 令和元年度 | 令和2年度 | 令和3年度 | 令和4年度 | |
学校名 | 2017年 | 2018年 | 2019年 | 2020年 | 2021年 | 2022年 |
人吉西 | 291 | 278 | 289 | 275 | 263 | 251 |
東間 | 338 | 328 | 332 | 316 | 299 | 311 |
大畑 | 71 | 68 | 63 | 62 | 66 | 66 |
西瀬 | 219 | 224 | 217 | 209 | 175 | 175 |
中原 | 324 | 321 | 321 | 309 | 318 | 305 |
地教委計 | 3260 | 3237 | 3241 | 3191 | 3142 | 3130 |
西 | 264 | 275 | 273 | 285 | 287 | 284 |
一 武 | 204 | 201 | 213 | 224 | 207 | 217 |
木 上 | 167 | 166 | 158 | 140 | 144 | 142 |
地教委計 | 635 | 642 | 644 | 649 | 638 | 643 |
多 良 木 | 274 | 278 | 270 | 247 | 249 | 231 |
宮 ヶ 野 | - | - | - | - | - | - |
久 米 | 91 | 86 | 75 | 76 | 61 | 55 |
槻 木 | 2 | – | - | – | - | – |
黒 肥 地 | 129 | 137 | 141 | 142 | 144 | 137 |
柳野分校 | 3 | 4 | 4 | 4 | 5 | 5 |
地教委計 | 499 | 505 | 490 | 469 | 459 | 428 |
湯 前 | 182 | 194 | 192 | 182 | 192 | 184 |
地教委計 | 182 | 194 | 192 | 182 | 192 | 184 |
湯 山 | 40 | 38 | 35 | 31 | 27 | 26 |
岩 野 | 85 | 89 | 80 | 74 | 73 | 74 |
地教委計 | 125 | 127 | 115 | 105 | 100 | 100 |
相 良 南 | 202 | 195 | 190 | 185 | 182 | 165 |
相 良 北 | 21 | 20 | 20 | 13 | 13 | 13 |
地教委計 | 223 | 215 | 210 | 198 | 195 | 178 |
五 木 東 | 40 | 44 | 39 | 27 | 27 | 23 |
地教委計 | 40 | 44 | 39 | 27 | 27 | 23 |
山 田 | 205 | 200 | 210 | 203 | 196 | 181 |
万 江 | 41 | 37 | 36 | 34 | 33 | 41 |
地教委計 | 246 | 237 | 246 | 237 | 229 | 222 |
渡 | 96 | 91 | 80 | 78 | 66 | 62 |
一 勝 地 | 75 | 74 | 72 | 71 | 60 | 56 |
地教委計 | 171 | 165 | 152 | 149 | 126 | 118 |
上 | 240 | 241 | 240 | 232 | 227 | 204 |
免 田 | 381 | 374 | 363 | 352 | 337 | 333 |
岡 原 | 140 | 141 | 152 | 141 | 127 | 125 |
須 恵 | 58 | 61 | 58 | 58 | 59 | 63 |
深 田 | 87 | 85 | 85 | 86 | 93 | 87 |
地教委計 | 906 | 902 | 898 | 869 | 843 | 812 |
児童数計 | 4,789 | 4745 | 4,705 | 4,518 | 4,389 | 4,265 |
2 中学校
平成29年度 | 平成30年度 | 平成31年度 令和元年度 | 令和2年度 | 令和3年度 | 令和4年度 | |
学校名 | 2017年 | 2018年 | 2019年 | 2020年 | 2021年 | 2022年 |
第一 | 407 | 406 | 383 | 387 | 404 | 410 |
第二 | 423 | 422 | 408 | 430 | 411 | 415 |
第三 | 38 | 37 | 29 | 28 | 28 | 26 |
地教委計 | 868 | 865 | 820 | 845 | 843 | 851 |
錦 | 373 | 331 | 321 | 303 | 324 | 316 |
地教委計 | 373 | 331 | 321 | 303 | 324 | 316 |
多良木 | 265 | 248 | 258 | 244 | 254 | 258 |
地教委計 | 265 | 248 | 258 | 244 | 254 | 258 |
湯前 | 99 | 92 | 82 | 89 | 91 | 93 |
地教委計 | 99 | 92 | 82 | 89 | 91 | 93 |
水上 | 53 | 57 | 77 | 72 | 70 | 57 |
地教委計 | 53 | 57 | 77 | 72 | 70 | 57 |
相良 | 129 | 122 | 122 | 114 | 102 | 105 |
地教委計 | 129 | 122 | 122 | 114 | 102 | 105 |
五木 | 18 | 18 | 15 | 20 | 21 | 24 |
地教委計 | 18 | 18 | 15 | 20 | 21 | 24 |
山江 | 123 | 123 | 125 | 124 | 130 | 129 |
地教委計 | 123 | 123 | 125 | 124 | 130 | 129 |
球磨 | 109 | 98 | 93 | 83 | 72 | 62 |
地教委計 | 109 | 98 | 93 | 83 | 72 | 62 |
あさぎり | 476 | 450 | 447 | 434 | 447 | 469 |
地教委計 | 476 | 450 | 447 | 434 | 447 | 469 |
生徒数計 | 2,513 | 2404 | 2,360 | 2,328 | 2,354 | 2,364 |
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