日本遺産めぐりin 人吉

退職校長会

平成27年(2015年) から日本遺産に認定された人吉球磨の社寺等を訪問して見聞を広めると共に、

会員相互の親睦を図る目的で、令和4年12月3日 (土曜日)に「日本遺産めぐりin 人吉」を開催いたしました。

訪問先は人吉城趾周辺の人吉城歴史館(相良清兵衛屋敷跡)、相良護国神社、林鹿寺、武家蔵、永国寺です。

当日は、午前9時に人吉城歴史館横駐車場に集合し、人吉市在住、案内人の多良木町文化財保護委員の蓑田温子氏の案内で、散策し研修しました。

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※案内人の蓑田温子氏から提供された資料をもとに掲載しています。

平成27年4月、文化庁から様々な文化財群を1つのテーマでつないだ「日本遺産」18件の認定がはじめて発表され、人吉球磨地域の「相良700年が生んだ保守と進取の文化~日本でもっとも豊かな隠れ里一人吉球磨~ 」が選ばれました。

続いて平成28年には、世界かんがい施設遺産に「幸野溝・百太郎溝水路群」が登録されました。

日本を代表する文化財の宝庫として人吉球磨が認定されたことは大変誇らしいことであり、この地に育まれた歴史的魅力に溢れた文化財群に関する情報を、広く知ることによって今後の取り組みにつなげていくことを目的に研修を計画しました。

現在、人吉球磨地域10市町村や民間団体で構成する「人吉球磨日本遺産活用協議会では更なる魅力発信のために追加などを文化庁に申請しストーリーを構成する文化財群は59となっています。

今回は、人吉球磨地域「日本遺産構成文化財」の中から人吉城跡周辺を中心に散策しています。

相良清兵衛屋敷跡 (地下室遺構)

全国的に類例のない井戸を備えた特殊な石造の地下室遺構です。

東西が6m、南北が 5.2m、深さは 3.2m です。

地下室には北東角と南西角に石階段の出入口がついています。

西側中央部には、湧き水を湛える深さ2.3mの井戸があり、その底には日本刀一振が沈められていました。

寛永17年(1640) 人吉城絵図にある相良清兵衛屋敷内の二階建て「持仏堂」の位置に相当します。

(スペインのカタルーニャにある 「ミクヴェ」 と呼ばれるユダヤ教に関わる遺構で構造がそっくりなものがあります。 「ユダヤ教の身を清める沐浴施設ミクヴェ」のこと)

令和4年9月24日に人吉城地下室遺構の謎に迫るシンポジウムが開催されました。

「御下の乱」慰霊碑

寛永16年(1639) 21代人吉城主相良頼寛 (さがら よりひろ)は、父長毎 (ながつね)の遺言によって、専横(せんおう)のふるまいのある相良 (犬童) 清兵衛頼兄(いんどうせいべえよりえ)を幕府に訴えました。

翌年、清兵衛は津軽藩お預けの処分となりましたが、これを不服とする人吉城内の犬童半兵衛ほかの一族によって「御下の乱」がおこり、半兵衛方の 121人 が死亡した。

死体は筏 (いかだ)に積まれ、矢黒の亀が淵の川原に埋葬され、この供養碑が建てられました。

河川改修のため、昭和48年に清兵衛の屋敷地であった現在地に移転しています。

毎年、人吉城内「御下の乱」供養碑前で1640年7月7日に起きた人吉藩相良家のお家騒動「御下の乱」で亡くなられた相良清兵衛一族 121人の追悼式が執り行われます。

相良家先祖供養会や市教育委員会、阿吽の会の代表者ら、市民の方々などが参列。供養碑に黙とうを捧げ、参列者が順に白菊を手向けて故人を偲びます。

相良清兵衛は戦国時代末期から江戸時代初期の相良家の家老として、数々の相良家存亡の危機をその知恵で乗り切り城下町ひとよしや人吉球磨の基礎を作った郷土が誇る偉人でもあります。

中島哀浪歌碑

「かはちどり鳴けば見おろす球磨川の瀬の音たかし霧のそこより哀浪」

※昭和26年3月、人吉短歌会の招きで佐賀から人吉にやって来た時に詠んだ歌だそうです。

※北原白秋、若山牧水と並ぶ九州三大歌人の一人

武者返し、はねだし石垣

寛永16年(1639) に幕府に気兼ねして石垣工事は中止されましたが、この時には近世人吉城はほとんど完成していたと考えられます。

人吉城は、二度の大火にあっていますが、 文久 2年(1862)の「寅助火事」では、城内の建物がほとんど焼失します。

御館北側に位置する 「武者返し」と呼ばれている石垣は 「はね出し」という工法で、防火のため造られたものです。

この工法は、函館の五稜郭や江戸湾台場など日本では数例見られるヨーロッパ式の石垣です。

明治4年(1871) の廃藩置県によって城内の建物は立木とともに払い下げられ、石垣だけが残りました。

犬童球渓顕彰碑

( 銅板陽刻) 明治12年~昭和10年、本名・信蔵 新潟高女勤務時に作詞
「故郷の廃家」
幾年古里来て見れば 咲く花啼く鳥そよぐ風 門辺の小川のささやきも なれにし昔に変わらねど 荒れたる我家に住む 人絶えてなく

相良神社

人吉藩の居城であった人吉城 (国指定史跡) 跡内にあり、代々の藩主が祀られています。

人吉城御館跡庭園

藩主相良家の居宅があり、政庁として使用された「御館」跡に残る庭園です。

滝口を中心として左右が広がり、大和絵のような雅やかな世界を作り出しています。

中世時代の相良氏 の居城を借景としており、相良氏ゆかりの庭園といえます。

御館御門橋 (県指定重要文化財)

明和3年(1766)に築造された石橋で、江戸時代の土木建築を知る遺構として貴重な建造物です。

銘文のある石造多脚式橋梁としては県内最古のものです。

林鹿寺「明治十年戦死之碑」

新宮嘉善を発起人として西南戦争殉難者の戦死の碑建設計画がもちあがり、明治 19年11月23日、万江家の旧屋敷に建立されました。

揮毫(きごう)は元幕臣で、伯爵の勝海舟です。現在向かいの林鹿寺境内に移され、揮毫も寺院に保管されています。

日蓮宗のお寺で、寺の隣には江戸時代、藩校「習教館」がありました。

※揮毫(きごう)とは(筆をふるって)字や絵をかくこと。

大井戸遺構

相良内蔵助屋敷 (清兵衛の長男) の地下室です。

武家蔵・堀合門

正面の堀合門は人吉城から移築されたものです。母屋は錦町にあった藩主の御仮屋を移築しました。

元、新宮簡の屋敷で西南戦争の時は西郷軍幹部宿舎になりました。

新宮簡の息子の嘉善が人吉隊小隊長でした。

永国寺

蓬莱山永国寺と称し、曹洞宗の寺院。

寺の創立は、応永15年(1408)相良9代前続公の開基により、実底超真和尚が開山しました。

*幽霊掛軸: 当寺開山実底超真和尚が描いたと伝えられます。
「幽霊寺」といわれる由縁の伝説が伝わります。
*焼酎墓」
「庚申塔」
*西郷本営跡碑
 碑文は海軍大将山本善輔の揮毫
*五重石塔 (県指定重要文化財)
 嘉禄3年(1227) 熊本県内最古銘の層塔。
*人吉2番隊士の碑
 人吉二番隊士6名の追悼の碑
*千人塚石碑 (耳塚)
 朝鮮出兵のおり、相良20代長毎公も耳鼻1800を秀吉に進上しました。鎮魂のために建立したものです。

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人吉城歴史館の所在地

〒868-0051 熊本県人吉市麓町18−4

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