令和6年度「人吉球磨日本遺産めぐり in さがら」

活動報告

令和6年11月10日(日曜日)に、『日本遺産に認定された人吉球磨の寺社仏閣、史跡等を訪問して見聞を広めるとともに、会員相互の親睦を図ること』を目的に、恒例の「人吉球磨日本遺産めぐり」 を開催しました。

今年度は、相良村を訪問地域として開催し、相良村教育委員会から教育課長の出合宏光氏に講師をお願いして、内容のある、充実した「人吉球磨日本遺産めぐり」を開催することができました。

当日の日程はこちら

(1)集合 9:00 相良村役場前駐車場

(2)開会行事

〇挨拶及び講師紹介

〇講話(相良村教育委員会 出合宏光氏)


(3)相良村役場出発(乗り合わせて移動)

(4)見学

①雨宮神社(あまみや じんじゃ)

②山本神社(やんもと じんじゃ)

※写真はご神木…ナギ

③十島菅原神社(としま すがわら じんじゃ)

(5)閉会行事 (挨拶、諸連絡等)

(6)解散 11:45 相良村役場前駐車場

動画はこちら

※参考資料

深水宗方 (ふかみ そうほう)

「相良700年」とよく言われるが、後継者争い等で相良氏存続の危機は何度もあった。 安土桃山時代、相良氏の危機を救った人物がいる。 深水宗方 (ふかみそうほう1532生~1590没)である。

宗方は、18代義陽(よしひ)、10代忠房(ただふさ)、20代長毎(ながつね)につかえ、幼い当主を補佐し、巧みな交渉術で島津氏や豊臣秀吉の信頼を得て、相良氏の度重なる危機を救った重臣である。宗方は、長智(ながとも)ともいい、歌人でもあり、剃髪(ていはつ)して三河入道宗方と称した。

天正9年(1581)は、相良氏にとって大きな分岐点となる年である。18代義陽は水俣城(現水俣市)での島津氏との戦いに敗れ、その配下となった。同年12月、島津義久の命令で出陣した義陽は、響野原 (現宇城市豊野町)の戦いで戦死。 宗方は義陽の嫡男・忠房 (9才)を16代当主として擁立した。しかし、義陽の弟頼貞(よりさだ)が家督を奪おうと 挙兵する内乱状態が続いたため、宗方は島津氏から忠房に対して球磨一部の安堵を取り付け、相良家中の動揺を鎮めることに努めた。その後も、宗方は島津義久の病気養生の願掛けに一万句の連歌を進上して、島津氏と相良氏の関係を良好に保つために尽力した。

 このような島津氏と相良氏の主従関係を一変させたのは、天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐である。相良氏は島津氏配下として殿(しんがり)をつとめた。そこで、秀吉軍との圧倒的な軍事力の差を目の当たりにした宗方は、秀吉側に寝返ることを画策する。

同年4月26日、宗方は、病死した忠房に代わり当主となった長毎(13才)の名代とし八代城(現八代市) に出向き秀吉と会見。島津配下の有河氏の首18を持参したところ、その心がけは感心であると秀吉から朱印状をもらう。

その後、秀吉は島津義弘を川内(現薩摩川内市)で倒し、島津氏は5月5日に降伏。
5月9日、宗方は秀吉のいる泰平寺を訪ね、「草も木もなびき従う五月雨の天の恵みは 高麗百済まで」と歌を詠み、秀吉との良好な関係維持に力を注いでいる。

5月27日、秀吉は宗方を佐敷(現芦北町)に呼び出し、領土争いに決着をつけるため肥後と薩摩の境目について詳しく尋ねただけでなく、併せて、秀吉の直轄領である水俣地方の代官を宗方に任じている。5月31日、秀吉は長毎に球磨一郡を安堵。宗方が一連の相良氏の危機を救った中心人物であることは間違いない。同日、秀吉は宗方に球磨郡の本地24町とともに、水俣55町、津奈木町の計9町という破格の所領を与えた。

このことは、秀吉が宗方という人物を高く評価したことを示すものである。その後、肥後国人一揆が勃発した際、秀吉の命で佐々成政(さっさなりまさ)に助成しようとした島津軍を、自分を攻めてくるものと勘違いした成政の依頼をうけ、長毎は島津氏の入国を阻むという失態を犯してしまう。

同年9月26日、すかさず宗方が大阪へ上洛し秀吉に陳謝、 許しを得ることに成功した。 宗方は再び相良氏の危機を救ったのである。この宗方にまつわる建物に、 十島菅原神社(現相良村大字柳瀬)がある(写真1)。神社本殿棟束には、天正7年(1589) 11月28日、大檀那相良長毎、勢辰(願成寺僧)とともに大願主として深水宗方の名前が墨書されている。 当社は国の重要文化財に 指定され、現在も当時のままの姿が残されている。

天正18年(1590)8月24日、宗方は病没(38才)中尾山(現人吉市)に葬られた。法名は大僧都法印宗方。墓は人吉市中尾観音堂近くの墓地にあり、相良村深 水観音堂脇に供養塔がある。
宗方が補佐した相良長毎は、その後、朝鮮出兵、関ヶ原 の戦いを生き抜き、人吉城の改修、青井阿蘇神社の再建、 城下町の整備等を行い、近世人吉藩の基礎を築き上げた。

雨宮神社(あまみや じんじゃ)

祭神・・・高龗神(たかおかみのかみ)と船玉命 (ふなたまのみこと)
貴船神社(京都市鞍馬)
高龗神は竜神の類といわれ、雨を降らし雨を止める神といわれる。

物語 相良家 12 代為続ゆかりの神社
室町時代の文明4年(1472) 6月中旬、 球磨地方では全く雨が降らず、 小川や溝、 堀までことごとく水が枯れ、小魚が死んで浮かび上がることが 多くみられるようになった。 さらに日照りは続き、 7月中旬、 草木の色が 変わり、誰も耕作ができなくなった。 為続(26歳)は、 僧侶や宮司、山 伏に命じて雨乞いの祈祷に専念させたが効き目なし。 とうとう8月中旬 になるまで一滴の雨も降らない。 暑さにより草木は枯れ、川の水は干上が り、すべての人々が炎熱に苦しんだ。

為続は、万民の苦しみを嘆き、井口 八幡神社、青井阿蘇神社、願成寺、矢黒神社等の寺社に雨乞い祈願を頼み、 みずからは雨宮神社に参詣し、 雨乞い祈願をした。 その時に詠んだのが次の歌。
名も高き 木末の松も枯れつべし なおうらめしき 雨の宮かな
この歌を詠んだためか、 為続の願いが天に通じたのか、為続が神社の参 詣から屋敷に帰る途中、 風が吹き、砂が舞い上がり、雨が激しく降り出した。あまりに激しい雨のため、 願成寺の住職勢秀が、 雨道具を持参し、木 末蓑原まで迎えに来た。 為続はその夜、増水した球磨川を渡ることができ ず、願成寺で一夜を過ごした。

永江太鼓踊りと八軒組
大祭 毎年12月の第2日曜日、 今年は12月8日

山本神社(やんもと じんじゃ)

本殿 安土桃山時代の天正元年(1573) 建築。 相良村有形文化財に指定。
深水頼金が相良18代義陽及び領内の無事を祈願 (棟札)
祭神 蔵王権現 (奈良県吉野町金峯山寺)
生きものすべての三世 (過去、 現在、 未来) を救う仏。
高さ7m以上、 全身が青く憤怒の形相、修験道の神。
石樋(いしどい)・・・球磨地方でもここだけ。
ナギ・・・球磨地方でほとんど見かけない珍しい木。
ナギの実は、書道で使う墨の原料として重宝された。
ナギの葉は、名前が凪に通じることから、 船乗りの信仰を集め、次第に 一般の人にも災難除けとしてお守り袋に入れる風習が生まれた。
深水地区女相撲保存会 (金田きくみ会長) 平成27年に57年ぶりに復活。
11月15日(金)13時から秋季大祭神事の後、女相撲の奉納。

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